玄甲舎は田丸城の家老であった金森得水の茶室兼別邸である。金森得水は表千家茶道で免許皆伝を受けた茶人でもあり、江戸末期(1847)に数寄屋造りの玄甲舎を建築した。玉城町指定文化財に登録され、平成27年(2015)より現地調査と改修を行い令和2年(2020)6月に一般公開された。露地は当初は金森得水によって作庭され、近年には「昭和の小堀遠州」と称えられ、足立庭園美術館を作庭したことでも知られる中根金作が設立した中根庭園研究所によって発掘調査を行い復元された。
受付を済ませ玄甲舎へ向かう通路に驚かされた。それは両側の上下二段の生垣であり、下段がお茶の木、上段がマキ(槙)となっている。
ちなみに茶の木は2列構成であるが、奥になると3列構成になっている。また茶室を兼ねた別邸ということから、生け垣に「お茶の木」が選定されたのだろう。だとしたら実に粋だ。管理人のお話では「参宮線がひかれる以前の年代不詳の玄甲舎敷地図に茶畑の記載があり、当時を偲んでお茶の木を生け垣に選んだそうです。」とのこで、およそ間違っていなさそうだ。
お茶の木とマキ(槙)はグリーンの色が僅かに違うため、生け垣が単調にならないのが良い。ちなみに生け垣の外側にJR参宮線があるため、1時間に2~3本であるが電車の往来が見える。管理人の方の話によれば、「隣接している参宮線は1893年(明治26年)に田丸の発展のため当時3千坪あった敷地の一部を金森家が自発的に無償提供して田丸駅とともに建設されました。まさにお庭に汽車が走っている状態で、以前の門は線路のはる向こう伊勢街道近くにあったようです。」とのこと。
八畳茶室からの額縁庭園。
中根研究所により作庭された露地。かつては南側に広がる国束(くずか)山系などをを借景に、金森得水が庭を設計したと言われている。
露地で目を惹いたのが2石だけ巨石を用いた飛石。意図は不明だが、このような意匠も希有なものである。
また、露地の随所に配されたマキ(槙)の木々も目を引きます。本来、自然な樹形を活かして刈り込むことが多いマキを、ここではあえて厳格な直線、すなわち棒状に刈り込むことで、強い垂直性を強調している。この硬質な造形は、優美な数寄屋造りの建物と対比的な面白さをもたらしており、細部にわたるこだわりを感じさせてくれるものである。
| ○ | 上下二段に構成された生け垣は、下段に茶室にちなんで選定した「お茶の木」は、素材選びの粋なセンスに感銘を受けた。 |
| × | 特に見当たらない。 |