越後随一の大地主・伊藤家が、大正4年(1915)に新潟の別邸として購入。その後、文化人の曾津八一(あいづ やいち)が昭和21年より晩年を過ごした。庭園は大正10年以降に作庭され、改良が重ねられてきたものである。
新潟市屈伸の庭園である北方文化博物館の分館。まずは表座敷から額縁庭園。
2階座敷「潮音堂」から枯山水を見下ろす。日本海の海鳴りが聞こえたことより名付けられた座敷名である。枯山水は、水の無い池泉、いわゆる枯池を造っている枯池式枯山水となる。
分館では庭園を散策できる。枯地に玉石を敷き詰めており、これが本庭園の最大の特徴でもある。分かるだろうか、、、
枯池に近づいて撮影してみると、中央部は玉石が小さくなっている。
池泉の中央部と外側で石の大きさが異なり、写真の青線の内側を小石を敷き、漣(さざなみ)が立って流れる様子を演出している。このような意匠は他に見たことはなく、ユニークなものである。また、赤線で囲んでいる石が礼拝石(らいはいせき)であり、庭園のビューポイントとなる場所である。
枯池に敷き詰めている青色の玉石は「阿賀の黒石」と呼ばれ、雨水に濡れると黒色に変わり、その様子はまた美しく、むしろ雨天時に訪問したいぐらいだ。そして中央部は小石で小さな波である漣(さざなみ)を演出している。
漣が切石を潜る様子。
赤線で囲まれた石組は三尊石となり、蓬莱山とも見立てられる。おそらく蓬莱山を力強く表現するために兼用して組まれた蓬莱三尊だろう。また青ラインのところは2段落としの滝石組だ。蓬莱山:不老不死の妙薬があるとされる山
2段落としの滝石組の上流を撮影。右奥の洞窟石組から水が湧き出て、滝石は青石で水の流れを表現している。そして池に流れ入る様子を石造りで表現して、大河に見立てた池泉に注がれる。これは人生の流れを表しているとのこと。
蓬莱山があるということは、鶴亀があることが多い。私の想像であるが、右の出島にある左先端の黒石が亀頭石となる亀出島にみえる。すると鶴石組を探したくなり、左の赤マーカが鶴石組ではなかろうか。中央の白い巨石を羽石と考えた。
茶室へ招かれた客人が主人を待つ腰掛待合。
腰掛待合から飛石で露地門を抜けると、大正末期に造られた茶室「清行庵」がある。
茶室に隣接したところには蹲踞(つくばい)。蹲踞は隣接する茶室へ向かう際など、身を清めるため造られることが多い。水の落ちる石が手水鉢(ちょうずばち)、手水鉢の両側には手燭石(夜の茶会で使う手燭(てしょく)という明かりを置く石)と湯桶石(茶室で使う湯桶を置く石)。そして手前の大きな平石は本人が立ち手を清める前石となる。
降雪の時期は茶室「清行庵」は利用できないため、表座敷を茶室として利用する。土間に前石があり、ガラス戸を開けると蹲踞がある。豪雪地域でも茶の湯を楽しめるように工夫されている。
○ | 池泉に敷いた玉石「阿賀の黒石」の大小で小さな波である漣(さざなみ)を見立てているのが興味深く美しい。 |
× | 蓬莱三尊石に松が被さり、石組が目立たなくなってしまっている。 |