大聖護国寺は鎌倉時代(1215)に創建した真言宗豊山派の寺院であり、隣接する上野國一社八幡宮の神様を守るために建てられた「神社のためのお寺」である。また東京の音羽護国寺の前身であり、綱吉の母・桂昌院ゆかりの寺院でもある。令和3年(2021)に完成した「桂昌庭」は54代住職・飯塚秀譽(いいづかしゅうよ)氏の設計であり、八幡町の山口昭二氏より奉納された。
数年前までは住職のいないお寺であったが、54代住職によって本堂や客殿などが建築され、令和3年には枯山水「桂昌庭」が作庭された。
白砂敷きにいくつもの島を設けて、積極的に石を立てている。お寺の方に作庭意図を伺うと、徳川綱吉の母・桂昌院の生涯を描いた枯山水になっているとのこと。参考資料をいただいたので解説していく。
庭園は左から右へ時代が進んでいき、一番左の石組は桂昌院の故郷・京都時代であり、幼少期の名前であった「お玉」と、桂昌院の弟である本庄宗資(むねすけ。のちに常陸国笠間藩・初代藩主)に見立てた立石がある。
続いて、1回目の大奥時代を表している。家康の側室・尼僧「お万の方」のお付きとして大奥に入り、その後、徳川家光の乳母「春日局(かすが の つぼね)」に見出される。やがて家光の側室となり、のちの綱吉を授かる。
左が1回目の大奥時代と、右が2回目の大奥時代であり、その間の30年間を繋ぐのが二本の石橋である。
次の時代への橋渡し。
家光亡きあと、お玉の方は出家して「桂昌院」の名を授かり、綱吉と桂昌院の館林藩主時代が続く。綱吉が徳川五代将軍に就くと、桂昌院は大奥に返り咲き、大奥での絶頂期を迎える。ちなみに橋の奥にある立石は、綱吉の安産祈願を行った大聖護国寺・第24代住職の亮賢和尚に見立てている。また、音羽護国寺の前身であることから音羽護国寺に見立てた石も据えている。
庭園南部には東京都豊島区の南蔵院より移設した庭門がある。
そして、こちらの島にも意味がある。
島は5つの石で構成されており、大聖護国寺の五大明王に見立てている。また灯籠は徳川家綱供養塔になっている。
鞍馬石にも見受けられる沓脱石と手水鉢。手水鉢の右手の枯流れ風の意匠までこだわっている、
庭門から書院を撮影。ちなみに「高崎で暮らす」の記事に作庭当時の写真があるが、当初より苔を増やしているが、日当たりが抜群なこともあり、苔焼けしているのが残念なところである。
別のエリアにも細長い枯山水が造られている。
| ○ | 桂昌院の生涯に見立てた枯山水で、ストーリー仕立てになっているのは珍しく見応えある。 |
| × | ガイドがないと、このようなストーリーになっていることに気づかないため、書院に説明が記載されたパンフレットなどがあると良いと感じた。 |