旧野﨑家住宅(旧野崎家住宅)は江戸時代後期に塩田王と呼ばれた野﨑 武左衛門(ぶざえもん)の旧家。庭園は表書院などのできた江戸末期(1841-1853)とされている。
開園と同時に訪れた旧野﨑家住宅。水まきをされていた関係で石が濡れているが、とても大きな踏分石である。本庭園は子孫繁栄を祈念した陰陽石を多数配置した陰陽思想を表現した庭園になっている。陰陽石の場所は分かりにくかったため係の方に伺うと、平面図を手渡された。
文字が細かいので、写真をタップして拡大してみて欲しい。図の♂が陽石(男性器)、♀が陰石(女性器)であり20石近く見つかる。よく見ると先ほど踏分石は陰石で、沓脱石は陽石となっているではないか。 [ 案内図を拡大する ]
横長の沓脱石が陽石。そして、飛石と切石が交差した切石手法の飛石もみられる。
踏分石は陰石となっている。陰石は石に切れ目や窪みがあることが一般的であり、探すときの目安になる。
表書院の庭園で最も目を惹く巨石は、築山に三尊石を立て、中央が陰石で右が陽石となった陰陽石になっている。またこの石組は枯滝石組も兼ねている。陽石に切れ目があるのは、運搬時は分割して運んだためである。同様の事例では日本三名園の後楽園の「大立石」が挙げられる。
飛石は築山に造られた観曙亭へと続くが立ち入りはできない。また写真の赤マークの石は陰石になっている。
続いて中座敷、奥座敷のある裏手へ回り込むと、苔むした枯山水となる。先ほどの表書院庭園が雄大な陽の庭園としたら、奥の庭はわび・さびを感じさせる陰の庭だろうか。そして、この写真にも1つの陽石と3つの陰石が映っているがわかるだろうか。
青が陽石で、赤が陰石だ。
近づいてみてみると、両サイドの平たい立石が陰石となっている。陽石は一見奥にある1.5mほどの立石と思ってしまうが、手前の小振りな石であった。
図解した写真の右手前に映っていた陰石。こちらは窪みがあるので分かりやすい。
築山側から撮影してみる。
本庭園で最も美しい感じたのが、こちらの枯滝石組から続く枯流れの意匠だ。いくつもの石を組み合わせた何段にも落とされた多段式であり、頂部は天を突くような立石を据えている。おそらく遠山石を兼ねているのだろう。ただ、ひとつ残念なところが。それはシーサーのような置物が置かれていること。これは明らかに不釣り合いで勿体ない。
近づいて撮影。見事な枯滝石組だ。
最後に中座敷の上ノ間、中ノ間、鶴ノ間、亀ノ間、松ノ間と5つの間を貫いた写真を撮影。
○ | 陰陽石が日本最多と思われる20石ほどあり興味深い。また奥庭の枯滝石組が切り立っていて美しい。 |
× | 枯滝石組のそばに置かれた置物を撤去したい。 |