昭和45年(1970)の日本万国博覧会で日本政府が造園した庭園である。本日本庭園の設計、施工指導を担当したのは造園家・田治六郎(たじ ろくろう)である。田治六郎は総理府技官を経験後、大阪市の土木局公園部長を担当しており、この時代に万博記念公園の日本庭園に携わった。また足立美術館の庭園を作庭したことでも知られる中根金作も携わったと自叙伝で述べられている。
万博記念公園には日本最大の広さを誇る日本庭園があり、東西に1.3kmにもなる広大さだ。上代・中世・近世・現代の4庭園で構成され、平安時代から現代までの庭園を一堂に楽しめるのが特徴である。まずは日本庭園の正門近くにある中央休憩所から近代庭園を望む。こちらでは近代庭園とは江戸時代初期をイメージして作庭されたものになる。
野筋から州浜に続く意匠は美しく処理され、洲浜の先には白い岩島を置いている。また心字池には適度な間隔で岩島を配置することで単調にならないように工夫している。
心字池の北側に回り込み先ほどの野筋を撮影してみると中島になっていた。先ほどの視点場からは中島と繋がっている斜面が繋がっているように配置していたのだろうか。眺める場所によって光景が変化していくことは、美しい庭園のひとつの要素だと私は考える。
続いて中世庭園エリアへ。こちらは「松の洲浜」と名付けられたエリアで、川が河口付近から海へと注ぐ姿を模している。上代庭園エリアからの湧水が南北二つの流れに分かれ、松の洲浜で合流して近代庭園の心字池へと流れていく。洲浜、芝庭、枯山水と3つの区分に分けれた地割りは他に類をみない美しい眺めだ。
「松の洲浜」を別角度から撮影。先ほどは川が合流する石橋から撮影していた。中世は鎌倉時代、室町時代の庭園を再現したとされるが、この時代に芝庭は存在していない。あくまでイメージということなのだろう。
さらに上流へ進むと、このような広大な枯山水が広がり、枯山水を横切る様に遊歩道を設けている。万博で日本庭園を体験してもらう意味でこのような設計にしたのだろう。
続いて千里庵の枯山水へ。こちらは禅院の方丈をイメージしており、白砂には砂紋をつけている。
千里庵の枯山水を別角度から撮影。刈込みにより枯山水の境界線を借景に馴染ませ奥行きを生み出している。
中世庭園と上世庭園を繋ぐ竹林の小径。日本庭園を造成する以前は、この土地には竹林が広がっており郷土の風景を再現するために竹林の小径が造られた。
続いて上代地区へ。こちらは平安時代の貴族の「寝殿造り」の邸宅に付随した寝殿造り庭園を模している。この寝殿造り庭園は「深山の泉(みやまのいずみ)」と名付けられ、対岸にある迎賓館を寝殿造りの建物と見立ている。池泉に向かって洲浜を設けているが、池泉に向かって徐々に小さな石へと変化している。
「深山の泉」の岩島が良い表情をしている。写真では分かりにくいが、右手の岩島の頂部にはカワセミが止まっている。
別角度から「深山の泉」を撮影。岩島の配置が見事であり、山畔にも石組を組んでおり細部に渡って設計されている。
最後は木漏れ日の滝。左に二段落ちの滝、正面および右手に小滝と3つの滝で構成している。
主瀑は二段落としの滝であり、望遠レンズで撮影すると右上に上段の滝がみえる。上段の滝から90度角度を変えて下段の滝へと落とされている。現代庭園は日本庭園らしさを感じることがあまりできなかっため、本記事では割愛している。
○ | 日本最大の広大さをもつ日本庭園は、平安時代から江戸時代までの庭園をイメージした庭園が造られており見応えある。夏日を避けて2時間ぐらいかけてゆっくりと巡ってみたい。 |
× | 特に見当たらない。 |