黒石町出身の実業家・政治家であった加藤宇兵衛が、失業対策として明治25年(1892)に大石武学流3代目・高橋亭山(ていざん)に作庭を依頼、4代目・小幡亭樹(ていじゅ)、5代目・池田亭月(ていげつ)と3代引き継ぎ明治35年(1902)に完成。平成18年(2006)に国指定名勝に登録され、平成27年(2015)に一般公開される。大石武学流については本文で解説。
ボランティアガイドによると、一般公開される前は「澤成園」という呼び名で子供の遊び場となっていたとのこと。国指定名勝の登録後に整備され「金平成園」という名前が付けらた。まずは主屋から額縁庭園を撮影。母家も見どころが沢山あり楽しい。
本庭園は津軽地方の日本庭園でよく見られる「大石武学流(おおいしぶがくりゅう)」である。大石武学流の庭園には一定のパターンがあり、写真の様に沓脱石からの飛石が2方向に伸びているのが、ひとつの特徴である。正面には池泉手前の礼拝石(らいはいせき)に向かう飛石と、蹲踞(つくばい)に向かう飛石で構成されている。
大石武学流では「手前水」とも呼ばれる蹲踞(つくばい)。一般的には蹲踞は茶室に入るために身を清めるところという意味合いを持つが、大石武学流では身を清めてから庭園を眺めるという意味を持つ。また手を洗うにはいささか大きすぎることに気づくだろうか。大石武学流では実際に利用するものではなく、身を清める姿を想像するものなのである。
続いて礼拝石(らいはいせき)。一般的には庭園のビューポイントとなり礼拝石から庭園を眺めるのであるが、大石武学流では決して足を踏み入れてはいけない。こちらは庭園に宿る神仏を礼拝するための石である。
主屋から緩やかに弧を描く飛石で、中島を繋ぐ石橋へと誘われる。
枯滝石組手前から明治時代に造られた旧加藤家住宅を眺める。池泉には中島を設け、切石で繋がれ庭園全体を回遊できる。
庭園南西部より撮影。右手には出島が造り、文末の案内図を見て頂くと分かるが入り組んだ複雑な池泉の形状をしている。特に回遊式庭園の場合は、苑路を進む毎に池泉の複雑さにより景観が変わっていき、庭園の美しさをより一層赴き深いものにしている。
焦点距離200mm(35mm換算)の望遠レンズで枯滝石組を撮影。滝石組も大石武学流には欠かせない空間要素である。少し分かりにくいが、滝水が岩肌を伝わらない離れ落ちの形式であり、水が落ちるポイントには水分石を配している。
枯滝石組に近づいて滝石組下部を撮影。玉石で水流を表現し、玉石に囲まれたやや大きい石が、先ほど解説した水を左右に分ける「水分石」である。
さらに近づいて撮影。水分石は左後方にある石であり、先ほどの写真では分からなかったが、さらにここから滝が落とされ、左右に分流する大きな石を据えている。
大石武学流の燈篭「野夜燈(やどう)」。自然石と「たま」と呼ばれる円形の石で構成された燈篭のことであり、こちらも大石武学流の定石だ。
出島を取り囲む護岸石組は、集団石組で構成され力強さを感じる。
最後に中島越しに枯滝石組を撮影。江戸末期から昭和初期にかけて発展した大石武学流。弘前、黒石、平川には大石武学流がいくつもあり、どれも見応えある古庭園であり、日本庭園好きであれば訪れる価値あるエリアだと断言できる。
金平成園(澤成園)の案内図(パンフレットより引用) [ 案内図を拡大する ]
○ | 複雑な池泉の形状により、回遊時における景観の変化を楽しめる。また主屋から座観式で観賞する庭園も遠近感があり雨天でも満足できる。 |
× | 特に見当たらない。 |