真如院は日蓮宗本圀寺(ほんこくじ)の元塔頭寺院で室町時代に創建するが翌年焼失。その後、すぐ現在地で再建される。昭和24年(1949)に明徳高校の校地拡張に合わせて敷地縮小(明徳高校は平成4年に西京区へ移転)。昭和36年(1961)には、昭和を代表する作庭家・重森三玲によって庭園が復元された。庭園は通常非公開であるが、10月頃に数日のみ特別公開される。
年間6日ほどのみ特別公開される真如院。コロナ禍で特別公開が中止されたりと、なかなか拝観が叶わなかったが令和4年にようやく拝観が実現できた。撮影禁止との記事もあり、本堂には「本堂撮影禁止」の案内があった。お寺の方に確認すると本堂は撮影禁止であるが、庭園の撮影は許可いただけた。また当日10名程度の拝観者は、皆庭園をカメラに収めていた。
真如院は僅か30坪程度の枯山水であるが、名だたる庭園が点在する京都でも名園と感じる造形美だ。そう感じるのは、まるで水が流れているかのような意匠にある。
重森三玲によって修復された庭園であるが、水の流れを表現した手法は当初からのものである。重森三玲は桃山初期に室町時代の影響を見せつつ創作されたものと推察している。
水の流れを表現している石は鱗型の石を丁寧に並べている。別方向から撮影してみると、、、
このようになっている。明治時代に庭園が改造されてしまったが、重森三玲が都林泉名勝図会(現代で表現すると「京都名園ガイドブック」)を元に修復している。
石で水の流れを表現している枯山水としては、重森千靑(ちさを)氏によって作庭された長野ホテル犀北館 重森庭園や、北方文化博物館 新潟分館が挙げられる。おそらく真如院庭園の意匠から生まれたものだろう。
実に丁寧に石を並べており、同時に掃除も大変であることも伺える。
拝観時の資料には「平安時代の池庭 → 枯山水(白砂) → 枯山水(小石) → 枯山水(鱗石) → 江戸時代の池庭と元庭に戻っていく道筋とも考えられる」と紹介されている。室町時代、桃山時代には庭園の敷地が小さくなり、財力的にも池泉庭園を作庭するのが難しく、そのなかで生み出されたのが枯山水であるが、その道筋として枯山水(鱗石)が造られたとすると作庭家のストーリーが素晴らしい。
真如院庭園は庭園の愛好家である足利義昭を招くにあたって、織田信長が庭園を造らせたと伝わる。政治的な背景で庭園が作庭されることは多く、たとえば滋賀県東近江市の松尾神社庭園も足利義昭を迎えるにあたって作庭されたと伝わる。
続いて、名石について紹介していこう。写真左上にある石は烏帽子石といわれ、室町時代に再建された際に足利義昭が真如院に宿泊されたときに元本山である本圀寺より運ばれた石とされる。
写真奥が先ほどの烏帽子石、手前には瓜実灯籠(うりざねとうろう)を据えている。足利義昭が名付け親だ。
苔の状態も比較的良好・普段の手入れに加えて、南側にマンションがあることで日陰になることも影響しているのだろう。五条という京都の都心部が苔に好影響をもたらしている。
江戸時代の天明の大火によって幼くして亡くなった子供のために奉納された呼子手水鉢。
とても造形深い枯山水に魅了され1時間ほど滞在していた。年間で6日ほどしか公開されないが、ここでしか見学できない鱗石による枯山水のために京都へ足を伸ばす価値があると思う。
○ | 鱗石を丁寧に並べることで水流を表現した枯山水。枯山水では日本有数の名園と感じる造形である。 |
× | 特に見当たらない。 |