旧円融寺庭園は江戸初期(1652)に大村藩主・大村純長(すみなが)により、徳川家光の位牌を祭るために創建された寺院である。寺院は明治元年に廃寺となるが、10代藩主・大村純昌(すみまさ)監督のもと江戸前期に作庭されたと伝わる枯山水が残る。昭和51年(1976)に国指定名勝を受ける。
長崎県には国指定名勝の庭園が3ヶ所あり、唯一陸路でアクセスできるのが大村市にある旧円融寺庭園である(残り2ヶ所は対馬市と五島市)。明治元年に廃寺となったあとはツツジに覆われ庭園の存在は知られていなかったが、昭和44年に枯山水の存在が発見される。
庭園前には戊辰戦争における戦没者の墓が並び、その奥には山畔斜面に芝を張り築山のように見せ、約400個の自然石によって集団石組のような石庭となっている。
庭のビューポイントとされる礼拝石から旧円融寺庭園を眺める。分かりやすく解説するために図解してみる。
図解するとこのように。まずは右手に三段に落とされた枯滝石組、その枯滝石組と合流するように設けられた枯流れ。斜面に沿って直線的に流される枯流れという意匠は希有なものだ。頂部には本庭園で主石となる石組の主石三尊石組を組んでいる。これは蓬莱石組ともされている。また面白いのが遠山石が3ヶ所配置していることだ。遠山石とは遠山を抽象的に表した石で、庭園に奥行きを生み出す役石であるが、これが複数あるのは珍しい。
枯滝石組を別角度から望遠レンズ(焦点距離 約150mm)で撮影してみると、三段落としであることが掴みやすい。
枯滝石組の上段と中段。上段をよく観察すると2段落としのようになっている。中段の滝水が流れ落ちる水落石は、水流の流れのような岩肌で美しい。
下段の水落石の先には、水流を左右に分ける水分石を配している。
築山頂部には主石となる三尊石組。その両側には遠山石を配している。遠山石は分かりにくいため、写真に緑色のマーカーで囲んでいる。
ここまで紹介してきた枯滝石組、主石三尊石などを別角度から撮影。斜面に多くの立石を設けていることがよく分かる。
今度は東側を観察してみると、枯流れ沿いにも石を並べていることが分かる。そして左手には縦に積まれたような石組がある。こちらは2つめの枯滝石組であり、近づいて撮影してみると・・・
七段落としの枯滝石組であり、先ほどの枯滝石組と同じく水落石には白色の石灰岩を用いている。
ひとつひとつの石組が乱雑に配置されたものではなく、三石組や五石組などになっており、全体として迫りくる意欲的な石庭となっている。
旧円融寺庭園は、現在は大村護国神社敷地内にあり鳥居近くには月の池と日の池がある。写真は月の池。
旧円融寺庭園の案内図。 [ 案内図を拡大する ]
○ | 斜面を築山に見立て青石を三尊方式に組み合わせた石組は、桃山時代の様式を色濃く残している。長崎県では離島を除くと、唯一の本格的な古庭園ではなかろうか。 |
× | 特に見当たらない。 |