江戸初期(1604)に築城した萩城(別名:指月城)の二之丸内に造られた庭園が東園。江戸中期に6代藩主・毛利宗広の時に作庭され、7代藩主・毛利重就の時に庭内の各所に六景二十勝の名称をつけ、その景観を装飾したと伝わる。明治7年の萩城解体後は庭園に付属する建築物も解体される。大正14年(1925)には復元修理が行われ、平成30年(2018)には保存整備に伴う発掘調査が行われている。
萩を訪問した多くの観光客が萩城跡へ訪れるが、その奥にある東園まで足を伸ばす人は少ない。萩城跡は指月公園(しづき)として整備されており、東園は二之丸内に造られた池泉回遊式庭園である。
さて、こちらの庭園はある程度の古庭園を巡ってきた方でないと魅力が伝わらない玄人向き。一見すると荒廃しているようにみえるが草が除去されていて護岸石組が露出している。正面は東園で唯一の中島で「小蓬莱」と呼ばれており、東園六景二十勝のうちの一景である。
中島には石橋を渡しているが、江戸時代には中島には橋が架かっていなかったことより、大正時代の修復作業時に新たに設けたものである。これは推測するにメンテナンスを考慮したものだろう。
中島を西側から撮影。北側の橋は反り橋となり、南側はフラットな橋として意匠を変えている。
中島の護岸石組。
東部に造られた出島の護岸石組。
先ほどの出島を別の視点から撮影。出島は視点場によって景が大きく変化する。池泉回遊式庭園の散策では、このような点にも注目してみると面白い。
出島の先には向かい合うように出島を造っている。
向かい合うような出島を撮影。
2018年の萩城跡(東園)の発掘調査報告書によると、先ほどの向かい合った出島には龍蟠(りゅうばん)と呼ばれる橋が架かっていたそう。龍蟠とは龍がとぐろを巻いて飛び上がろうとしている様子を表す言葉である。そして出島の奥には中島として説明した「小蓬莱」、そして池泉は「停雲(ていうん)」と名付け、それぞれ六景の要素である。
向かい合う出島を南側から撮影。
萩城跡(東園)の発掘調査報告書から引用 [ 案内図を拡大する ]
○ | 護岸石組に作庭当初の風合いが残されており、所々であるが力強さも感じさせてくれる。 |
× | 知見がないと大きな池にしか見えない。萩城跡(東園)の発掘調査報告書から引用したような当時の図面が現地にあると良いと感じる。 |