本興寺は室町初期(1383)に創建された法華宗の本山である。室町末期(1572)に徳川家康から御朱印地を受けた格式ある寺院である。そのような経緯もあってか、庭園は徳川家康に仕えた大名でもあり作庭家である小堀遠州が関わったと伝わる。また、本庭園は北原白秋の歌にも詠まれている。
書院から池泉に向かって飛石で繋がり池泉の先が礼拝石となる。礼拝石は庭園のビューポイントとなるところであるが、庭園内は散策できない。池泉には2島あり左が亀島、右が鶴島だろう。
亀島は植栽によって分かりにくいが、中心石を配した具象的な意匠である、
少し角度を変えて亀島を撮影。左が亀尾石で、鶴亀が向かい合うようになっているのだろうか。
続いて鶴島を撮影。鶴島は切石によって橋を架けている。切石の石橋は江戸以降で使われ、自然石の厚みの薄い石橋は室町から安土桃山時代につかわれ、安土桃山からは厚みのあるものも好まれるようになってきた。このように石橋の形状で時代が推測することもできる。とはいうものの、改修によって石橋が変わってしまうことなどもあるので一概にはいえないこともある。
本庭園で目を惹く石が、この斜めに据えた石である。亀出島のような意匠にもみえる力強いものである。
山畔には直下型の枯滝石組があるが、こちらも植栽などに阻まれ詳細を確認できない。案内板では枯滝石組の左手に三尊石、さらにその左手に須弥山石があると記載されているが確認できない。池泉回遊式庭園ではないので、おそらく当時は書院からそれらを眺められたことを考えると、鶴島、亀島の植栽は松以外は無かったと推測する。なお直下型の枯滝石組では、滋賀県彦根市の龍潭寺があり、こちらも小堀遠州によって作庭された。
礼拝石と出島。築山に蘇鉄(ソテツ)を植えている。蘇鉄は室町時代から日本庭園に植えられるようになり、安土桃山時代から江戸時代にかけて流行した。
江戸末期に造られた大書院と庭園。
江戸初期に造られた奥書院は県指定文化財であり、ここから額縁庭園を撮影。
昭和初期に造られた富士障子八枚壱組。
○ | 庭園には足を踏み入れることはできないが、三方向から庭園を観賞でき、特に護岸石組が美しい。 |
× | 植栽により枯滝石組、三尊石、須弥山石組などが、ほぼ確認できなくなっている。 |