曼殊院門跡は奈良時代から平安時代に比叡山に、天台宗を開祖した最澄(さいちょう)によって創建されたのが曼殊院の始まりといわれる。門跡(もんぜき)とは住職が皇室や公家によって受け継がれてきた寺院である。現在地には江戸時代(1656年)に移転。書院には桂離宮と共通した意匠がみられ「小さな桂離宮」とも呼ばれる。また、2022年には宸殿再建に合わせ、前庭「盲亀浮木の庭(もうきふぼくのにわ)」が作庭された。
庭園沿いの縁側からの景色は、まるで屋形舟から眺める庭園を楽しむように設計された曼殊院。縁側は広く、紅葉シーズンでも比較的落ち着いて観賞できるだろう。
まずは大書院から鶴島を眺める。鶴島には樹齢400年の堂々たる五葉松が鶴に見立てている。また縁側の奥には亀島がある。
鶴島を額縁庭園で撮影。
鶴島の五葉松の根元には、織部灯籠が置かれている。ただ松によって写真では死角になっており、現地でも見えにくい。ちなみに織部灯籠とはキリシタン灯籠とも呼ばれ、江戸時代初期にキリスト教禁止令のなか密かに信仰を続けていた隠れキリシタンの信仰物といわれる石灯籠である。
大書院から亀島を望む。迫力ある鶴島とは対照的な静かに佇む亀島だ。写真左側の砂紋は同心円に広がる渦巻きとなっている。砂紋の変化にも注目してみると面白い。
小書院からの額縁庭園。
小書院から亀島の奥に広がる蓬莱連山。解説文には「遠州好みの枯山水、庭の中心に瀧石があり、白砂の水は水分石から広がり、・・・」と記載され、それがこの景色である。次の写真で解説。
右奥の立石が「滝石(瀧石)」であり、曼殊院庭園最大の見所だ。そこから流れる水が石橋をくぐり、水分石(みずわけいし)で川が二分され、大海へと流れ込む。その様子を小書院の欄干(らんかん)から眺めると、まるで屋形船に乗船して大海へ向かっているように想像できるのである。欄干:縁側の手すり
滝石と石橋を望遠で捉える。肉眼では滝石、石橋を確認するのは難しいので、双眼鏡などを持参するのが良いだろう。もしくはスマホで撮影して拡大もいいだろうか。
小書院越しに、先ほど図解した蓬莱連山、滝石、石橋、水分石を望む。意図を理解した上で眺めると、屋形船に乗船して大海を進んでいるようにもみえてくる。また、小書院の欄干だけ意匠が優れていることにも気づく。
蹲居を上から眺めるとこのような意匠である。まず目を惹くのが青石の前石である。なんとも独特な形状だ。また手水鉢(ちょうずばち)の外側には楕円形の出っ張りがあるが、近寄ってみると「フクロウ(梟)」が掘られ「フクロウの手水鉢」とも呼ばれる。ちなみにフクロウは「不苦労」とも読み替えることができることから縁起物という意味や、平安時代には「幸せを運ぶ吉鳥」とも言われていたそう。蹲居については、新潟の国指定名勝「清水園」の記事を参考にして欲しい。
曼殊院は2018年と2023年に訪問しているが、2回目の訪問時には新たな枯山水が完成していた。調べてみると、2022年には宸殿が再建され、同タイミングに前庭「盲亀浮木の庭(もうきふぼくのにわ)」が作庭された。
境内の解説によると「大海に百年に一度息継ぎのために海面に頭を出す目の見えない亀が住んでいた。百年目に顔を出したところ、偶然にも風に流されてきた流木の節穴に頭がすっぽろはまった。人間に忌まれること、仏教に出合うことはこれほど難しいことであることを意味している。」とのこと。
こちらの横石が流木に見立てた天然記念物の「貴船岩」である。
| ○ | 滝石から石橋をくぐり大海へと流れる様子が美しく、縁側も書院も広くゆったり庭園観賞できる。 |
| × | 最大の見所となる「滝石から石橋をくぐり大海へと流れる様子」は、少々離れており、双眼鏡などがないと細部を確認できない。 |