臨済宗妙心寺派である龍安寺は、開基は武将・細川勝元が、開山は義天玄承(ぎてんげんしょう)により室町時代(1450年)に創建。特別名勝の石庭は作庭時期、作庭者は不明であるが、建築家・宮元健次の著書によると、方丈南庭を白砂のみとする寺院諸式が改正された年から、石庭のことに触れられた書物から作庭時期は1619年~1680年と推測、また遠近法や黄金比という西欧手法が用いられていることから、江戸幕府の茶人としても知られる庭園デザイナー・小堀遠州と推測される。開基:資金提供者、開山:初代住職
枯山水の代表格ともいえる「龍安寺の石庭」。方丈南庭の70坪に造られた石と苔だけの庭園は、1975年にエリザベス2世が石庭を称賛したことにより世界的にも有名となった。15石で5つの石組を構成しており、石庭には黄金比や遠近法という西欧手法がとられている。
黄金比とは最も美しい比「1:1.618」である。この石庭がまさしく黄金比であり、さらにその対角線上に石組みが据えられている。また、写真ではわかりにくいが、石庭が方丈から石庭の奥(南)に向かって高くなるような傾斜がつけられている。これにより遠近感(パースペクティブ)が強調され、奥行き感が生まれる。このような手法は西欧のルネサンス期(14~16世紀)の教会や庭園などで流行、その後日本にも取り入れられ、小堀遠州の作庭した南禅寺や大徳寺の方丈庭園などにみられる。
場所を移動しながら3枚の写真をパノラマにつなぎ合わせてみた。視点が異なるため、通説では15石を同時には眺められない、15石がすべて映っている。ちなみに手前から3石(E)、5石(A)、7石(BCD)の七五三石組にもなっている。奇数は永続性を示す縁起の良い数字とされ、室町時代以降このような手法がよく使われる。それでは、15石を順に説明していこう。
まずAの5つの石で構成された石組から解説。中央の石は龍安寺の石庭で最も大きく、苔島で三尊石に組まれている。また苔島から少し離れたところ平石が2石据えている。このような意匠から五尊とも考えられる。
次にBの石組。2石で組まれており、石庭のなかで遠山を表現している。
続いて、C,D,Eの石組を解説。Cの石組は立石、横石、横石より高さがなく地面に伏せているような伏石(ふせいし)で組まれていて、伏石だけ青石である。Dの石組は2石で組まれ、右側は石庭のなかで唯一角張った石であり目線が集まるポイントでもある。Eは、この角度からだと2石にみえるが、視点を変えると次の写真ように3石であることが分かる。
Eの石組の3つめの石が分かりにくいため、赤色でマーキングしている。もっと右側(西側)から眺められれば良いのであるが、これ以上は移動できなく、石庭で最も認識しにくい石である。そしてこの石組はAと同じく三尊石である。
さて、ここで方丈の裏手に移動してみる。「吾唯知足(ワレ、タダ、タルヲシル)」という「今を満ち足りたものとし、現状に不満を持たないこと」が記された最も有名な蹲居(つくばい)がみられる。蹲居の説明は清水園(新潟県新発田市)の記事を参考にして欲しい。
再び石庭を眺めると、、、15石を同時に眺められることに気づく!通説では15石を同時には眺められないといわれているが、そうではないようです。これは座った状態でも立った状態でも同様。この写真ではAとEが分かりいため拡大してみる。
Aを拡大すると、三尊石の左の石が僅かに確認できる。分かりやすいように赤色で囲っている。
Eは更に分かりにくく、このようになっている。中心石とほぼ同一化しているため、注意深く観察しないと気づかない。つまり1度に15石は眺められるのである。
方丈西側はこのようになっており、石組Eの右手の石は確認しずらいのが分かるだろう。
大徳寺家によって築かれた鏡容池(きょうようち)には、水分石(みくまりいし)と呼ばれる2石の岩島がある。写真右下にある岩島が水分石であるが、これは池の水かさを測るのに使われている石とのこと。また、鏡容池の北西部の苑路沿いには、いくつもの巨石が据えてあり、これらも見逃さないようにしたいポイントです。
龍安寺の案内図 [ 案内図を拡大する ]
○ | 枯山水のなかで植栽を排除した石庭の代表格。また最も有名な蹲居(つくばい)「吾唯知足(ワレ、タダ、タルヲシル)」も鑑賞できる。なお、一度に15石を眺めるには双眼鏡や望遠レンズが必要だろう。 |
× | 特に見当たらない。 |