衆楽園は江戸初期の津山藩主・森長継が小堀遠州流の造園師を招いて作庭され、旧津山藩別邸庭園とも呼ばれる。その後何度も大改修が行われ、明治(1870)に聚楽園と命名される。平成14年(2002)に国指定名勝となる。
国指定名勝の大名庭園で最後の訪問となったのが津山の衆楽園であった。広大な大名庭園であるが、岡山県では三名園のひとつ岡山後楽園があまりにも有名であり、本庭園の知名度はそれほど高くない。朝7時から開園しているため、時間の有効活用すべく早朝から訪問してみることに。
衆楽園には4つの中島があり、4島が直線状に並んでいる(一番最後の写真に園内マップを掲載)。最南部の中島は「紅葉島」と呼ばれ、木橋で繋がれている。木橋で繋ぐため東部と南部は出島とすることで、汀に湾曲が生まれ、景観美を生み出している。また紅葉島東部には、1石がやや離れているが三尊石風の石組も見られる。
唯一、橋で繋がっていない中島は「浮島」と呼ばれる。日本庭園史大系(著:重森三玲)によれば鶴石組と推測している。ここからは私の推測であるが、浮島の左には3つほどの長石を並べており、これを鶴首石と見立てることもできる。
日本庭園史大系では、浮島の東部(写真では右手)の出島の西北岸には巨石を用いた亀頭石と思われる手法のものがあることから、浮島を鶴石組と推測しているが、私には亀頭石が見つけられなかった。
有料で利用できる迎賓館、余芳閣の近くには小さな滝石組がある。周辺が木々に覆われ注意して観察しないと分からないものだ。二段落としの様式で、水が水落石の岩肌を伝って流れ落ちる布落式である。日本庭園史大系では、桃山期の手法を踏襲しているとのことだが、如何せん細部が分かりにくい。
衆楽園で見どころと感じたのが、北西部から西部に向かって設けられた曲水の流れである。やや分かりにくいので、写真に青色でマーカーを追記している。曲水の流れは明治以降に付け加えたものであるが、やや単調な園内に柔らかな水の流れを設けることで、庭園全体がグッと引き締まる。
中島に架かる土橋から最北部の中島「霧島」を望む。右手の路地の右側には、先ほどの曲水の流れが続いている。
園内北部まで曲水が繋がっているが、水の流れ自体は敷地外の水路へ流され、こちらは枯流れとしている。
紅葉の彩りも相まって、自然石を使った石橋と曲水の組み合わせが美しい。さらに奥に進むと深山幽谷の感がある。
まるで兼六園の琴柱灯篭(ことじとうろう)。
まばらに石を配した霧島と清涼軒を望む。迎賓館から正面となる光景であり、木々によりうまく敷地外の住宅を隠している。
衆楽園の案内図(衆楽園建物利用のご案内資料より引用) [ 案内図を拡大する ]
○ | 単調になりがちな大名庭園に、庭園北東部の曲水がアクセントを加えている。また曲水北部が枯流れ、南部が流水となり変化を付けているのも良い。 |
× | 滝石組の周辺が木々で覆われ細部が見えにくくなっている。 |