光悦寺は江戸初期(1656)に創建された日蓮宗の寺院である。書道家や芸術家でもあった本阿弥光悦は、徳川家康から鷹峯光悦町の土地を与えられ、この地に職人たちを率いて移住し、芸術村を築いた。光悦の没後、この地は光悦寺となった。路地の一部などは明治時代に七代目・小川治兵衛によって作庭された。
光悦寺といえば、庭園業界では「光悦寺垣」の発祥地として知られている。光悦寺垣は、端に行くほど高さが低くなることから、牛が臥せているようにも見えることから臥牛垣(がぎゅうがき)とも呼ばれ、生け垣のスタンダードなものとして各地で見られる。
光悦寺垣はいわゆる透かし垣で、むこう側の景色をよりよく見せているのが新しい意匠である。光悦寺垣が考案されるまでは、生け垣は塀であり、むこう側の景色を分断していたが、隠さないことで空間の広がりをもたせたのが秀逸なところである。
生け垣の上側の手すりのようなところを玉縁(たまぶち)と呼び、一方が緩やかに傾斜して地上に接しているのが特徴である。ちなみに光悦寺垣は本阿弥光悦が考案したという記事と、別の人が考案して本阿弥光悦が好んだという記事がある。
光悦寺垣で仕切られた路地にある茶室「大虚庵」で、現在のものは大正時代(1915)に新たに建築されたものである。
茶室「本阿弥庵」。先ほどの「大虚庵」、「騎牛庵」、写真の「本阿弥庵」は光悦会のお茶会開催に先立ち建築されたもので、光悦会は東京大茶会と並ぶ日本二大茶会といわれている。そして光悦会は毎年11月11~13日にて開催され、この期間は光悦寺の見学は不可となる。
茶室「本阿弥庵」には2つの腰掛待合があり、腰掛待合の足置きも独特な意匠である。腰掛待合から飛石を渡っていくと、
蹲踞(つくばい)へと導かれ、ここで茶室に入る前に身を清めるのである。蹲踞については、国指定名勝「清水園(新潟県新発田市)」の記事を参考にしてほしい。
鷹峰三山(鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰)を望む。
大正時代(1921)に建築された茶室「三巴亭(さんばてい)」。三巴とは過去・現在・未来を意味する。
茶室「三巴亭」。
茶室「了寂軒」。
茶室「了寂軒」へ続く飛石の途中にも蹲踞(つくばい)を設けている。
拝観料を支払うと、このような美しい石垣と渡り廊下が交差する苑路を進んでいく。京都でもアクセスしにくい場所にあるため、有名寺院ながらも静かに鑑賞できる。
ちなみに路地の一部は七代目・小川治兵衛(植治)によって作庭されているが、具体的にどこがそうであるかは不明だ。
○ | 美しい茶室が複数あり、路地は美しく整備され、鷹峰三山(鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰)も望め、京都らしさを感じさせてくれる寺院である。 |
× | 特に見当たらない。 |