旧島津氏 玉里邸庭園は江戸後期(1835)に造園された邸宅庭園。明治時代の西南戦争や昭和の太平洋戦争の影響を受けるが、庭園については大きな被害を免れている。昭和49年(1974)に国指定名勝の指定を受ける。
旧島津氏 玉里邸庭園は、池庭「上御庭」と庭園と茶室のある「下御庭」で構成されている。「上御庭」は鹿児島女子高等学校の敷地となり年4回程度のみ一般公開されており、今回は拝見できなかった。そのため写真は「下御庭」となるが、玉里邸庭園のメインは「下御庭」であるので十分に楽しめる。池泉右手前は出島となり、出島・岩島・中島と直線的に連なる。
池泉には中島が造られており、護岸石組は立派であり、後述の写真ではさらに迫力ある護岸石組をご紹介。
中島へは3本の切石による石橋で繋がっている。(通行はできない)
茶室を望む。芝庭は池泉に向かって2段に下がっており、護岸は丸杭を汀線に沿って打った「杭列護岸」となっている。また、左に中途半端な石橋がみえる。舟着き場としては高さが高すぎる。石橋と考えると中島に繋がっていたものだと思うが、中島に遺構を見つけられないので、庭園を眺める礼拝石のような位置づけなのだろうか。
礼拝石と考える地点から中島を眺める。この中島は文化遺産オンラインでは、「中島は亀の姿を象った岩から成り、この池が別称『亀の池』と呼ばれる由縁となっている」と説明されている。なるほど亀島に見立てているといえるのか。
茶室には水路が造られている。このような水路は日本庭園では「流れ」と呼ばれることが多い。また同じようなものに「遣水(やりみず)」という言葉があるが、形状や役目は類似しており、平安時代に「遣水」が生まれ、近代になって「流れ」となって受け継がれている。なお、現存する平安時代の「遣水」は平泉の毛越寺が唯一であり、庭園好きなら見学しておきたい名園のひとつである。
流れの上流には山形の石を据え、右側には織部灯籠を置いている。構成に設置されたと思われる織部灯籠は切支丹灯籠(キリシタン灯籠)とも呼ばれ、竿にキリスト像が彫られているのが特徴である。これは江戸時代初期のキリスト教禁止令後も、密かに信仰を続けていた隠れキリシタンの信仰物だった。
中島を別角度から撮影。江戸中期以降は石組に力強さが感じられにくくなっていくが、こちらは江戸後期ながら力強さが感じられる。また写真左に池中に2本の杭がみえるが、こちらは舟の係留に使われていたとのこと。当時は春には舟から花見を楽しんだともいわれる。
庭園東部には滝石組があり奥行きのある造形であり、上段の平石が手前に伸び、岩肌を伝わらない離れ落ちの手法をとっている。
別角度から撮影。先ほどの滝から流れ落ちる水は池泉へと注ぎ込まれ、水路には沢飛石による苑路になっている。また右の巨石は磯海岸から運ばれたもので、53個に分割して運び込まれ、再び組み立てたものである。同じようなものに、三名園のひとつ岡山後楽園の「大立石」があり、あちらは100個に分割して運搬されている。
鹿児島市では大名庭園である仙巌園が極めて有名であるが、古庭園としては、旧島津氏 玉里邸庭園のほうが魅力的に感じた。
旧島津氏 玉里邸庭園 案内図 [ 案内図を拡大する ]
○ | 中島の護岸石組が江戸後期ながらも力強さを感じる優美なものだ。 |
× | 特に見当たらない。 |