戦国大名の朝倉氏が5代にわたって約100年間も越前の国を統治した城下町跡「一乗谷朝倉氏遺跡」。遺跡全体が特別史跡に指定されており、敷地内にある4つの庭園(義景館跡庭園/朝倉館跡庭園、湯殿跡庭園、諏訪館跡庭園、南陽寺跡庭園)が1991年に特別名勝に指定。武家の庭園はことごとく失われ、発掘庭園であるが大変貴重なものである。当時は当主が代替わりするごとに新築する習慣があり、本記事で紹介する義景館跡庭園は、朝倉氏最後の当主となる朝倉義景の館に付随された庭園で、室町末期(1566)に造られたとされる。
一乗谷朝倉氏庭園の標準的な散策ルートで、一番はじめにお目見えするのが義景館跡庭園である。朝倉義景が当主時代の館に付随する庭園であることから現地案内看板には「朝倉館跡庭園」と表記されている。手前の石は館跡の土台を示す石であり、斜面には土留石組が見受けられる。
義景館跡庭園であり、泉殿から眺めた光景である。山の斜面を活かした地形に東西に伸びる池泉を設けている。
滝石組と水分石。
「日本の10大庭園(著:重森千靑)」によると、巨石の滝添石の右側も枯滝石組と推測している。確かにその奥の石が一段高くなっており、泉殿と小座敷の2つの書院から方向を変えて池泉を観賞できるため、各書院から正面に滝石組がみえるような意匠とも理解できる。話は変わるが、巨石の上部に小さな石橋を架けているのがみえるだろうか。
近づいて撮影してみると、赤線の部分が石橋である。滝上部に石橋を架けているものは玉澗流と呼ばれるが、観賞場から目に付かない場所で、上流に水路があり、橋の前後に苑路のような形跡がみられるため単なる苑路だろう。なお玉澗流については和歌山県の粉河寺庭園の記事を参考にして欲しい。
池泉東部から撮影。川底には板石が敷き詰められている。そして、この付近には池泉を跨ぐ石橋がかつて架けられており、おそらく先ほどの滝上部の石橋へと繋がっていたのだろ。
小座敷跡からみた庭園。
展望所から義景館跡を見下ろす。コンクリート敷きが敷地跡であり中央に長方形の芝生は花壇跡であり、日本最古の例とされる。
福井市中心部の足羽山麓にある愛宕坂茶道美術館に、義景館跡の復元ジオラマが展示されていた。当時の姿を偲ぶ精巧なジオラマで、現地に訪れる前に観ておくのも良いと思った。
こちらが花壇跡である。
義景館跡庭園/朝倉館跡庭園の案内図 [ 案内図を拡大する ]
○ | 2方向の書院から眺めるられることを前提に作庭された池泉庭園で、ひとつの滝添石を中心に2方向に滝石組を造っている意匠が素晴らしい。 |
× | 特に見当たらない。 |