円徳院は臨済宗建仁寺派の高台寺の塔頭寺院であり、創建は江戸初期(1605年)。豊臣秀吉の正室(本妻)である「ねね」の愛称で知られる北政所(きたのまんどころ)が晩年を過ごした。庭園は江戸時代と昭和に作庭された2つあり、江戸時代の北庭は国指定名勝を受ける。
あまりの美しさと力強さに思わず声が漏れた円徳院の北庭。北庭は賢庭(けんてい)によって作られた伏見城の前庭を縮小して移築したものである。その後、小堀遠州によって整えられた。賢庭とは、千利休に師事した茶人としても知られる作庭家・小堀遠州のもとで作庭に従事しており、代表作に醍醐寺 三宝院庭園がある。
まずは全景写真にて解説。2つの中島が2つの自然石と切石の石橋で繋がれている。円徳院の方に説明してもらったところ、左の中島は亀島、中央が鶴島、少し離れたところにある立石が鶴首石(かくしゅせき)、奥には蓬莱山があるとのこと。鶴島と鶴首石について、別角度から観賞すると、、、
鶴島と鶴首石が一体化してみえる。中島の鶴島であり鶴の胴体で、胴体から鶴の首が伸びているように見てている。また円徳院の方は、右手の切石が鶴の尻尾のようにもみてとれるとの解説であった。確かに、そのように感じとれる。
亀島を見下ろす。桃山時代の力強く豪華さを感じる石組で、なんと200石もある。
長寿のシンボルである鶴と亀に見立てた石組のある鶴亀庭園には、不老不死の仙人が住むとされる蓬莱山が作られることが多い。北庭にも築山を蓬莱山と見立て、集団石組で構成されている。また、観音菩薩の降り立つ伝説上の山とされる補陀落山(ふだらくせん)とも見立てらると円徳院の方が説明していた。
鶴島、亀島、蓬莱山を美しく眺めるには書院南側(右手)がベストポジション。
切石は中央に橋脚を据え、左と右側で意匠が異なるというこだわり。石橋の奥に三尊石があるが、モミジの成長により見えにくくなっている。ちなみにパンフレットでは三尊石がよく見えている。ちなみに、本庭園は 北山造園の代表である北山安夫が修復を手掛けている。
正面から額縁庭園を撮影したかったが、紅葉シーズンの午後ということもあり、人が捌けるタイミングがなく、斜めからの額縁庭園を撮影。
続いて昭和に作庭された南庭は、桂離宮などの修復整備に携わった森蘊(おさむ)監修によるもの。受付をすると、まずは南庭から観賞することになる。
庭園研究家である森 蘊(もり おさむ)の指導によって作庭されている。森 蘊は、浄土式庭園の代表格でもある京都府木津川市の浄瑠璃寺庭園などに携わっている。
巨石と小石の組み合わせは、山の麓にある集落を表現しているようにもみえる。
秀吉公好みの手水鉢は、秀吉が西尾家に世話になったお礼として贈ったものである。その後、円徳院に寄贈された。本格的に庭園巡りを始めるまで知らなかった寺院であるが、東山エリアでは見応えある庭園のひとつといっていいだろう。
○ | 大胆にして品格と力強さを感じさせる北庭。見る場所によって、鶴島と鶴首石が一体化する仕掛けも面白い。 |
× | 公開当初と比べると植栽が伸びてきており、三尊石など一部石組が隠れてしまっている。 |