元は江戸幕末に肥後熊本54万石・藩主細川氏の屋敷。その後なんども所有者が変わり、昭和36年(1961)に都立公園としか開園。昭和50年(1975)に文京区へ移管。細川家時代の姿を留める日本庭園の魅力がわかる名称とすることを目的として、2017年に「新江戸川公園」から「肥後細川庭園」に名称変更。庭園は明治時代の作庭とされる。
桜が咲くシーズンに「肥後細川庭園」を訪問。正門の看板が真新しいのは、2017年に「新江戸川公園」から「肥後細川庭園」に名称変更したばかりだからである。写真は出島であり雪見灯籠が添えられている。
肥後細川庭園は斜面を活かした東屋があり、ここから出島を見下ろす。右手前にある平石は「船着石」と説明がされている。ということは、舟で庭園を楽しむ池泉舟遊式庭園をイメージして造られたのだろう。もっと、舟遊式庭園は主に平安時代での庭園の楽しみ方であったため、名残だけを残したのだろう。
飛び石の先には礼拝石がある。池泉庭園ではよく見られるもので、最初に庭園を見渡すビューポイントといったところである。
礼拝石から庭園を眺める妻。
少し昇ったところから細川家の学問所として使用されていた松聲閣(しょうせいかく)を望む。都心だけあって、借景に高層マンションが視界にはいってくる。
松聲閣(しょうせいかく)を近くで撮影。2016年に改修されたこともあり、真新しさを感じる。一方、窓ガラスには明治時代の表面が波打ったものも一部残されており、これにより外の景色が揺らいでみえる。
松聲閣の庭もよく整備されている。特に芝庭と砂庭の境目に2つの飛石とかさなるようにレイアウトされ、かつ緩やかにカーブを描く境界線の意匠が美しい。また右手にみえるのは手水鉢(ちょうずばち)であり、その近くには水琴窟も楽しめるようになっている。子供が喜びそうだ。
額縁庭園を期待したが、少しイメージと違ったので、あえて引いて撮影してみる。
2階に上ってきた。パンフレットには2階からの眺めは明治28年頃に絵師・杉谷 雪樵によって描かれた「小嵐山庭園」を忍ぶ景色と記載されている。ただ、現在では住宅地が顔を覗かせてしまうので撮影を行わず、和装女性を隠し撮り・・・
松聲閣2階から手水鉢を見下ろす。なかなか大きな造りで立派である。
肥後細川庭園の案内図(パンフレットより引用) [ 案内図を拡大する ]
○ | 滝、遣り水、洲浜、礼拝石、出島、橋など池泉庭園を構成要素がぎっしり。また、船遊式庭園を忍ばせる船着石が見られるのも面白い。 |
× | 周辺は住宅地ということもあり、庭園内から高層マンションなどが見え隠れしている。 |