鎌倉時代に妙勝寺として創建。その後、室町中期(1456)に一休禅師が再興して「酬恩庵」と命名、臨済宗大徳寺派の寺院である。一休禅師が有名になり、一休寺と呼ばれることが多くなる。方丈庭園は安土桃山~江戸初期にかけての武将・石川丈山と佐川田喜六、真言宗の僧侶・松花堂昭乗によって作庭。2018年にはJR東海「そうだ 京都、行こう。」で取り上げられ全国区の寺院となる。拝観可能な庭園はいずれも江戸時代に作庭。
同志社大学 田辺キャンパスに通っていたこともあり、一休寺(正式名称:酬恩庵)の存在は学生時代から知っていたが、訪問したのは初めてとなる。訪問日は雨天であったが、縁側からの観賞式の枯山水であるため快適に拝観できた。まずは白砂とサツキの刈込みが美しい方丈庭園(南庭)へ。
住職の居室でもある方丈の南側にある敷地は、白砂だけの空間が本来の姿である。これは住職の就任式など重要な儀式を行う空間であったからである。次第に堂内で行うようになり庭園になっていくことが多いが、一休寺では本来の姿に近い枯山水となっている。写真はないが大徳寺 大仙院書院庭園の南庭や、東福寺の龍吟庵の南庭「無の庭」などが、白砂だけの空間になっている。
一般的に砂紋は方丈に対して水平方向に描かれることが多いが、一休寺では縦方向に砂紋が引かれている希有なものである。
続いて東庭の「十六羅漢の庭」へ。十六羅漢とは、お釈迦様から「仏教を守って、生命あるもの全てを導いて」と遺言を受けた羅漢(聖者)であり、お釈迦様から選ばれた16人のことである。そして、大小16個の石を羅漢になぞらえたのが「十六羅漢の庭」である。
羅漢になぞらえた庭園。
北庭へ移動。庭園内に低い山を設置した準平庭式の枯山水である。これに対して、方丈庭園は平らな庭に造られているので平庭式の枯山水とも呼ぶ。右奥は蓬莱石を中心とした枯滝石組、左は鶴亀石組となる「蓬莱式庭園」の形式である。順に説明していきます。
ひときわ大きな巨石が、不老不死の仙人が住むとされる蓬莱山に見立てた蓬莱石。青ラインが滝の流れであり、枯山水の名園「大徳寺 大仙院書院庭園」に類似している。理由はつく。一休禅師は、天皇の勅命を受け大徳寺大仙院の住職となり、応仁の乱で焼失した大仙院を復興しており繋がりが強い。一休禅師は室町時代で、作庭時期は江戸初期と異なるが、大仙院書院庭園の影響を強く受けていると考えて不思議ではないだろう。
蓬莱石の右手をズームアップ。写真右にある黒色の立石は鯉魚石である。鯉魚石とは鯉が滝を登る様子を表現した石である。もちろん鯉が滝を登るようなことはできないが、ひたすら修行を繰り返すという禅の理念を石組で表したのを「龍門瀑(りゅうもんばく)」と呼ぶ。鹿苑寺庭園(金閣寺)の鯉魚石が、もっとも分かりやすく美しいため理解を深めるために参考にして欲しい。
龍門瀑の手前には庭園のビューポイントとなる礼拝石がある。とはいうものの、こちらの庭園は縁側から眺める観賞式庭園のため礼拝石に立つことはできない。
続いて鶴亀石組に目線をうつす。蓬莱石との組み合わせでつくられるのが、長寿のシンボルである鶴亀である。こちらは鶴島と亀島が赤ラインで囲まれた石組で表現され、右から見ると亀島、左から見ると鶴島という仕掛けになっている。また、その奥の松の下には三尊石(黄色でマーキング)がある。
鶴亀石組を左から眺めると鶴島とのこと。このことは烏賀陽百合氏の「しかけにときめく京都名庭園」で知ったが、いわれなければ気づかないレベルだ。
蓬莱庭園の奥にも巨石を用いた庭園がある。
トンチで有名な一休寺というイメージしかなかったが、実際に拝観してみると京都市内の庭園にも負けない名刹だった。
一休寺 酬恩庵の案内図(パンフレットより引用) [ 案内図を拡大する ]
○ | 造形の美しい枯山水が3つも愉しめる。方丈を取り囲む雰囲気も素晴らしく、京都市内から足を伸ばす価値ある古庭園である。 |
× | 特に見当たらない。 |