隣接する清藤氏本邸の別邸となる盛美園は、9年の歳月を掛けて明治43年(1910)に作庭され。洋館の盛美館は明治42年に竣工。庭園は大石武学流の宗家(師範)のひとり小幡亭樹(おばたていじゅ)によるもの。昭和28年(1953)に国指定名勝を受ける。大石武学流については本文にて解説。
北東北で平泉の毛越寺と並ぶ有名な庭園である盛美園。毛越寺は平安時代、盛美園は明治時代と1000年以上時代が異なるが、どちらもその時代を代表する庭園といえる。盛美園は京都の無鄰菴(むりんあん)と青風荘(非公開)と並ぶ明治三大名園といわれている。さて、正面にみえる洋館「盛美館」は、庭園を眺めるための和洋折衷洋式であり、1階は純和風の数奇屋造り、2階はルネサンス調の洋館となり、上下で様式が異なるのは、日本で唯一とのこと。
津軽地方の日本庭園は「大石武学流(おおいしぶがくりゅう)」に沿ったものが多い。大石武学流の庭園には一定のパターンがあり、沓脱石からの飛石が代表的な空間構成である。次の写真で説明。
図解すると、盛美館の沓脱石から礼拝石(らいはいせき)、つくばい(蹲踞)に向かう2方向の飛石が連なっている。これが大石武学流の定石でもっとも分かりやいところだ。つくばいで身を清めてから礼拝石の手前から庭園を眺めるのである。通常、礼拝石は庭園のビューポイントであるが、大石武学流では供え物を置いて、神仏礼拝するためで乗ってはいけない石である。そのためか、一段大きな石となっている。そして見返り石は行き交う人を同じ石で交わらさせないための役石である。
一般的に蹲踞(つくばい)は茶室の近くに置かれ身を清めるのであるが、大石武学流では身を清めてから庭園を眺めるという役割。ただ見て分かるように余りにも大きく、とても手が届かない。そう、大石武学流では蹲踞も、さきほどの見返り石も「実」を兼ねたものではなく、想像するものである。書院から人の動きをイメージしながら庭園を眺めるのである。
礼拝石の奥には枯池、吹上の浜と名付けられた洲浜、池泉へと続き、奥には枯滝石組が控える。滝石組も大石武学流で欠かせない要素であるが、望遠レンズがないと確認しにくい距離である。
望遠レンズで枯滝石組を撮影。滝頂部には遠山石(えんざんせき)を据えている。遠山石とは遠山を抽象的に表現したもので、滝に奥行き感を与えている。
枯池と洲浜「吹上の浜」には2つの中島があり、自然石、切り橋、木橋で連なっている。中央の中島は蓬莱島であり、亀をかたどった島に、鶴を象徴する松(赤松)を配して長寿を願った蓬莱島である。その右手の小さな島は「方丈島」である。盛美園には蓬莱島、方丈島、瀛洲島(えんしゅう)と呼ばれる3つの中島があり、これは仙人が住んでいたとされる三神山から来ている。
自然石を組み合わせた野夜灯(やどう)と呼ばれる石灯籠があり、これも大石武学流の必須要素である。
庭園東部から西部を眺める。
舟型の主石を中心に、七福神に見立てた七石で囲んだ「客人島」は、枯池に造られている。
神が住むとされる三神山のひとつ瀛洲島(えんしゅう)を摸した中島には自然石で繋がっている。大石武学流では、池を中心に「真」「行」「草」の三部で構成。通常、真・行・草といえば延段のことであるが、大石武学流では地割のような意味合いになる。枯滝石組のあるエリアは仏教思想を表した「真の築山」と呼ばれる。延段の真・行・草については笹離宮(長野県茅野市)の記事を参考にして欲しい。
北東部にある築山には、立石による三神石組と野夜灯(やどう)。このエリアは神道思想を表した「行の築山」であり神社もある。
そして、最後が草木を中心とした「草の平庭」となる。またこちらの石組は二神石と呼び、沓脱石から礼拝石、つくばいへ向かう飛び石と、飛石が無く少し離れた場所にある石組を二神石と呼び、これも大石武学流である。二神石とは、七福神のうち2つの神に見立てた石のことである。
盛美園 案内図(パンフレットより引用)に加筆。 [ 案内図を拡大する ]
○ | 大石武学流の原点となる清藤氏本邸の別邸だけあり、大石武学流の要素が高次元で構成されている。観賞場所によって、景観が大きく変わり回遊する楽しみもあり、北東北エリアでは毛越寺と並ぶ見逃せない庭園だと感じた。 |
× | 特に見当たらない。 |