多賀大社は創建時期は不明だが、平安時代には既に存在していた。多賀大社は長寿祈願の神として信仰され、「二十年の寿命が延びる」と伝わる寿命石がある。奥書院は多賀大社に残る最も古い建物で、江戸時代中期に再建されている。奥書院庭園は安土桃山時代(1588)に豊臣秀吉が、その母・大政所(おおまんどころ)の病気平癒を祈願して奉納した米1万石(現在の価値で10~30億円相当)をもとに築造されたと伝わる。また東庭は重森三玲と同時期に発掘調査という手法で日本庭園を研究していた森蘊(もりおさむ)によって昭和43年(1968)作庭された。
奥書院の北庭(写真では正面)に安土桃山時代の庭園、東庭(写真では右手)に森蘊(もりおさむ)によって昭和に作庭された庭園がある。森蘊とは、重森三玲と同時期に発掘調査という手法で日本庭園を研究。桂離宮や修学院離宮の発掘調査や復元整備を行い、のちに庭園文化研究所を設立した人物である。
北庭「奥書院庭園」を撮影。まず、大きな特徴が2つあり、ひとつは水面は縁側より3m低い場所にあり、書院から見下ろすような地形になっていること。もうひとつは庭園北部に川が流されていることだ。
奥書院庭園を図解してみると、写真のようになっている。左右に鶴島、亀島の岩島を配し、石橋の先には三尊石、その右手に枯滝石組を設けている。そして奥には東西に太田川が流れている。
鶴島、三尊石、石橋。特に三尊石は蓬莱石組になっている。
蓬莱石組の右手には、小振りな枯滝石組がある。
枯滝石組を望遠撮影すると、鯉魚石を思わすような小さな立石もある。
今度は鶴島を望遠撮影。時が止まったような風合いのある岩に胸を打たれた。出島の護岸石組の処理も、極めて美しく感動的だ。
鶴島と護岸石組を別角度から撮影。
続いて亀島。文献では明示されていないが、奥の傾斜を設けた長石が亀頭石だろうか。
出島の奥には太田川が流れており、その北岸にも石組が見られる。書院に座って観賞すると、太田川は死角になり、北岸の石組が一体化しているように見える。
続いて、書院東庭から舟石を主役として額縁庭園を撮影。このように等間隔に戸を開けているところにも配慮があって嬉しい。
東庭は森蘊(もりおさむ)が昭和43年に作庭したものであり、舟石や七五三石組が特徴となっている。歴史的な庭園の近くに森蘊が作庭した事例としては、大阪府高槻市にある普門寺が挙げられる。どちらにも共通した興味深いことがあり、当初は江戸時代に作庭された庭園だけが、国指定名勝に登録されていたが、後に森蘊が作庭した庭園も追加登録されていることだ。このことは「昭和の作庭記 著:マレス・エマニュエル」に記されており、マレス氏は「追加指定により、貴重な庭園を好良な環境のもとで永く保存しようとするものである」と説明している。
まるで親子のような二石の舟石で、舟石は蓬莱山へ向かうような構図になっている。東庭は「七五三石組」となっていることから、正面の蓬莱山は7石組だろう。
こちらには三石組の三尊石。取材時は七五三石組であることに気づかなかったため、詳細は未確認であるが、どこかに五石組があるのだろうか。次回訪問時に改めて確認してみようと思う。
○ | 安土桃山時代の古庭園は、他では例を見ないような意匠の鶴島、力強い三尊石と石橋が美しい。また東庭の舟石が蓬莱山に向かう入舟の構図が素晴らしい。 |
× | 特に見当たらない。 |