備前岡山藩の第2代藩主・池田 綱政の指示で、14年の歳月を掛けて江戸時代(1700年)に完成した日本三名園のひとつ。明治4年に特定日のみ開放、明治17年(1884)に通年での開放となった。昭和27年(1952)には特別名勝の指定を受け、翌年より有料となる。
それでは正門から反時計回りに巡っていこう。まず見えてくるのが藩主が後楽園を訪れたときに使われる延養亭。年に数字だけ一般公開され座敷から庭園を眺められる。
延養亭の南側には花華の池がある。左手には後楽園最大の滝石組がある。
滝石組をズームアップ。何段にも落とされた滝であり、江戸中期ということもあり丸みを帯びた石が使われている。
花華の池には、もうひとつ見忘れてはいけない景物として「大立石」がある。いったいどうやって運んできたのかと思わせる巨石であるが、実は巨大な花崗岩を100個ほどに割り、再び組み上げたものである。見事な技術を感じさせます。
歩を進めて高さ6mの築山「唯心山」へ向かう。あまり注目されないポイントだが、立石を中心に組まれた石組であり躍動感あります。
唯心山から、橋の架かかる「中の島」と、その左手に御野島(みのしま)を望む。この写真からは見えにくいが、御野島には東屋のような建物の釣殿(つりどの)が設けられている。釣殿:池に臨んで建てられた東屋で、納涼や宴会などで使われる。
かつては後楽園には田畑が広がっていたが、財政難により大半が芝に変えられた。その名残で残っている「井田(せいでん)」である。井田:中国の周代に行われた土地制度。田を井字形に9等分し,1区分を公田として納めさせる制度を井田法という。その田畑を井田と呼ぶ。
唯心山を下ったところには枯滝石組がみられる。
唯心山と廉池軒の間に陰陽石がみつかる。陰陽石とは男根を陽石、女陰の形に似る石を陰石と呼び、子孫繁栄の象徴とされる石組である。
2階建ての数寄屋造りの「流店(りゅうてん)」。藩主の休憩所であったため、景色が見やすいように柱が細くなっている。また、「曲水の宴」が催されたともいわれるようです。曲水の宴とは、平安時代の貴族が杯が自分の目の前までに流れてくるまでに詩歌を作って詠み、盃の酒を飲んで次へ流すという遊ぶ庭のことである。
後楽園の南部には「花交の池(かこうのいけ)」があり、中島が作られている。中島の奥には滝があり「花交の滝」と呼ばれ、後楽園を巡ってきた曲水の水は、この池を通じて後楽園を囲む旭川へと流れ込む。
白砂と青々とした松によって造形した白砂青松(はくさせいしょう)。日本の美しい海岸の風景を見立てており、実景であれば美保の松原(静岡)や津田の松原(香川)、庭園であれば足立美術館(島根)の白砂青松庭などにみられる。後楽園は池と曲水、そして小径の配置が素晴らしく日本三名園のなかで、もっとも散歩が気持ちいい庭園といえよう。
岡山後楽園の案内図 [ 案内図を拡大する ]
○ | 池泉や曲水沿いに設けられた苑路が絶妙で、景観を楽しみながら散策できる。また庭園から城を眺めたり、また天守閣から庭園を見下ろせるのも面白い。 |
× | 借景に一部ビルが顔を覗かせてしまう。 |