平安時代(830)に無量寿寺として創建。江戸時代(1612)に喜多院と改められ、1638年に大庭が造園される。徳川家光誕生の間や、五百羅漢(らかん)など、多くの重要文化財を所有する。
川越大師とも呼ばれる喜多院。紅葉シーズンには紅葉山庭園が人気を集めるが、書院前に遠州流の枯山水「曲水の庭/轉合の庭(てんごうのにわ)」がある。遠州流とは、小堀遠州(こぼりえんしゅ)に始まる武家茶道の一派である。小堀遠州は、江戸幕府の茶人でもありながら庭園デザイナーとしても知られ南禅寺金地院(京都)や頼久寺(岡山県高梁市)など数多くの作品を残す庭園界の偉人である。ただし、本庭園は「遠州流」となっているため、小堀遠州自身が作庭した庭園ではない。
本庭園は「曲水の庭」と「轉合の庭(てんごうのにわ)」と2つの名称がつけられている。曲水とは「曲水の宴」からきている言葉であり、平安時代の貴族が杯が自分の目の前までに流れてくるまでに詩歌を作って詠み、盃の酒を飲んで次へ流すという遊ぶ庭のことで、これを枯山水で表現している。浜松市にある万葉の森公園 曲水庭園の記事を読むと理解がより深まるだろう。轉合とは、「ご冗談でしょう」という意味で、○□◇の形をした飛石は本来不調和であるが、見事に調和が取れていることに由来している。ひとつ前の写真で確認してみて欲しい。
案内板には「中心の離れ五石の石組は四方見となっており」と表現されているが、書院前から眺めると三尊石組を兼ねた枯滝石組にみえる。いずれにせよ見事な石組みであり景の中心となっている。
枯滝石組として見立てると、中央の立石は滝石である、滝壺には大きめの丸石で飛沫が表現され、ここから段差は低いものの、さらに二段落とされた「三段落ちの滝石組」となるだろう。
曲水の中程には、青石による見事な立石が控える。
川下には2本の石橋が敷かれ、川下になるに従って流れが穏やかになっていく。
書院から額縁庭園を撮影。
左手に客殿、書面には三代将軍・徳川家光のお手植桜が開花している。
客殿から三位稲荷方面(西方向)に石組がみられる。、焦点距離200mmの望遠レンズで撮影してみると、巨大な枯滝石組が確認できる。もっと近づいて観賞したい。
再び額縁庭園を撮影。写真右手には、。「吾唯知足(ワレ、タダ、タルヲシル)」という「今を満ち足りたものとし、現状に不満を持たないこと」が記された蹲居(つくばい)がみられる。
本堂と客殿をつなぐ渡り廊下。その西側には紅葉山庭園が造られている。
渡り廊下
紅葉山庭園に据えられた三石の巨石。化の組(あだしのぐみ)と呼ばれ、どこからみて重なり合わないように配置されているとのこと。右上が上を向いて前進した姿の織田信長、左下が大きく物欲的な豊臣秀吉、左奥が時機をうかがう徳川家康をかたどっているとのこと。
堀際にある長方形の三石は極真組(ごきしんぐみ)と呼ばれる角石のみで組まれた石組で、石組の中で最も組むのが難しいと言われているようだ。難しいかどうかは私には分からないが、余り例をみない石組であることは確かである。
○ | 関東圏で一般公開されている数少ない本格的な枯山水である。 |
× | 特に見当たらないが、紅葉山庭園にある渡り廊下に表記された庭園の案内にある「轉合の庭」が、紅葉山庭園ではなく、枯山水の説明になっており混乱してしまう。 |